「夢殻」通信

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help リーダーに追加 RSS 「テーマ特集『越境する俳句』(「らん」42〜44号)」を読む   【皆川 燈】

<<   作成日時 : 2009/01/14 09:45   >>

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 「越境する俳句―他ジャンル」というテーマで42号から3号にわたって特集を連載してきたが、私にはいずれの切り口も興味深かった。俳句という小舟は、思えばずいぶんいろいろなところを旅してきたものだ。そもそもの出自はどうあれ、俳句はさまざまな表現の実験をそそのかす魔力を秘めた装置として存在してきたように思われる。
 高野射手男氏が取り上げたのはボスニア生れの歌手、ヤドランカである。彼女が「俳句」という歌をつくった背後には、農村を採譜して歩いたヤナーチェクやコダーイ、バルトークなどの作曲家たちの存在が透けて見える。鳴戸奈菜氏が取り上げたのは永田耕衣の歌集だった。47歳の耕衣が昭和21年に発表した短歌を後年まとめた、ただ一冊の歌集である。タイトルの『金色鈔』は「如何にしても生きむと思ふ金色の思ひを小さく浅からしめよ」からとられているようだ。この歌には戦争を生き延びたことへの複雑な思いが渦巻いている。生きたいという思いを「金色の思い」と記した耕衣、そしてそれをあえて「小さく浅からしめよ」といわずにはおられなかった耕衣……これらの思いがない交ぜとなって、「琴座」の俳句宇宙が形成されていったことを忘れてはならないだろう。
画像 歴史の主体の失効後、終焉に向う人類と文学のその末席で俳句が身もだえしている姿を赤黄男の「零の中 爪だちをして哭いてゐる」などを引きつつ語ったのは伊東聖子氏である。そうかもしれない。しかし、滅びに向いつつ哭いているその泪の一滴は、読むものに、なんとさまざまな夢を見させてくれるのだろうか。
 一句が一足飛びにモーリアックの「テレーズディスケルウ」へと読み手を運んでくれる俳句ならではの飛翔力を語ったのは松下カロ氏である。俳句の短さは人間に見果てぬ夢を垣間見させてくれる起爆剤のようなものなのだ。あるものにとっては湿っていて一向に火もつかぬかと思えば、出会うや否や火花が散って、火縄をシュルシュルと火が走っていく場合もある。それこそ、耕衣のいう「出会いの絶景」である。終焉に向う世界にも出会いの絶景は満ちている。
 矢田鏃氏は芭蕉の五七五とレンブラントの画布を、小林秀雄の「疾走する悲しみ」を媒介にして重ねて取り出してみせてくれた。俳句の越境者の筆頭に上げるべき寺山修司を論じたのはもてきまり氏。丑丸敬史氏には岩尾美義氏の存在を教えられた。俳句を書く詩人たちは多いが、寺山のような人は二度と現れないだろう。また、今日、現代詩の側に俳句を引きつけて捉えなおし投げ返す人はなかなかいないと思う。では翻って「俳人は越境するか」。丑丸氏がこの一文につけたタイトルは、実に示唆的である。
 九牛なみ氏はスペイン語圏の俳句について書いている。メキシコの詩人、タブラーダにとって俳句は西洋の伝統詩と訣別するための革命的装置であったという。ゴッホやゴーギャンが浮世絵から触発されたように、メキシコの詩人たちは俳句を「革命的な短詩形」と捉え「永遠の現在」を封じ込めるに足る詩型であると感じたのだ。彼らの、そのときの魂の震えのようなものを、私たちはいまこそし画像かと味わうべきであろう。オクタビオ・パスのハイク作品と芭蕉の「海くれて鴨のこゑほのかに白し」を並べて、「共感覚」という切り口で捉えてみせてくれたのは新鮮だった。共感覚とは音に色を見、色に音を聞く感受性のことであるというが、俳句という「永遠の現在」の中では言葉の一粒一粒が独特の色を発し音楽を奏でる。つまり「共感覚」とは俳句の醍醐味そのものを語る言葉でもあるのではないかと思ったのだった。

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コメント(1件)

内 容 ニックネーム/日時
「越境する俳句」は『らん』42号から同人が取り組んで来た大切なテーマです。このように俯瞰してもらうことで、ひとりひとりの興味や努力が『らん』に収斂していることが良くわかるのではないかと思います。最新44号では丑丸敬史、九牛なみ、皆川燈が三様に「越境の必然」を語っています。カロ
カロ
2009/01/18 18:20

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